青銅の輪

 夜、人気のない道をよろよろと歩いて行く者がいた。その歩行者は自分の視界の隅で、月の光が揺らいだのを感じた。三五の月が終わったとはいえ、中天には溜息が出るくらい綺麗な月が掛かっていた。だが、道行く者にはそれを楽しむ余裕すらもなかった。荒い呼吸を繰り返し、徐々に重くなっていく足を懸命に前へと出していた。その者の前には堀川があった。

 ――六条河原で休むべきだったか・・・・・・。それにしても・・・・・・。

 幾許いくばくも進む事が出来なくなった身体を静止させた彼の耳に、夜風に乗った竜笛の音が届く。その類稀なる音から奏者を悟ると、彼は軽く苦笑するかの如く唇を歪めた。と同時に懐へと手を伸ばす。本来は薄色であったであろう衣から引きずり出された、小さな麻の袋はその場で開かれる事なく持ち主の手から離れ、ゆっくりと傾斜を滑っていった。

 ――こんなことをして何になるというのだろう。けど、報告だけはしておかなければ。

 彼は無理矢理身体を屈ませ、袋の口をぐいと開いた。そんな僅かな動作も身体に響くのか、小さな呻き声が噛み締めた歯の間から漏れる。

 予め人形ひとがたに切って何事かを書き付けておいた紙を取り出すと、彼はそれに言葉を乗せて出来る限り小さく折りたたむと、風に乗るように宙に放り投げた。紙は方向を確認するようにゆっくりと宙に上がると、ある方向へと物凄い勢いで飛んでいった。それを見届けた彼は袋を手に立ち上がろうとした。

 視界が反転し、気が付いた時には半身が川の中に入ってしまっていた。水を含んで重くなった衣がまとわりつき、彼が陸に上がろうとするのを阻んだ。

「・・・・まぁ、良いか。」

 力なく一人ごちると、彼は少しずつ水深がある方へと身体を流していった。そして天に顔を向けて水面の下へと消えていった。

 ――月が近いな。

 肺に残っているありったけの空気を吐き出しながら、彼は水面を見上げた。中天に掛かっていた月が水の中だとこんなにも近く見えるものなのだろうか。と、そのような事を思いながら遂に彼は目を閉じた。

 一方竜笛の主は突然響き渡った水音と、己が目の前を一瞬のうちの通り過ぎていった白っぽいものに違和感を覚え、竜笛を懐へと仕舞い、左手を佩いている太刀の鞘に掛けつつ音のした方へと急いで足を向けた。竜笛の主は、月の美しさに心を奪われいつものように一人屋敷を抜け出してきた源博雅朝臣であった。供もつけておらず夜に徒歩かちにて出歩くこの気ままな殿上人は、やはり行動が粋狂であった。

 堀川の川面近くに漂っている薄色の衣の片袖を見つけるや否、躊躇うことなく川に手を突っ込み、闇色の水の中にいるであろう衣の主を探した。十八夜の月光を湛えていた川面は、腕が動くと共に光を小さく分散させ博雅の目を惑わした。そしてまだ温かい細い腕を探り当てた博雅は、しっかりと掴んで自分の方に引き寄せたのだった。

 抱きかかえるようにして水没していた者を仰向かせると、博雅は顔を覆っている髪を左右に分けたその手がつと止まる。

「・・・・・・時、行殿?」

 その腕の中で正体を現した者は、つい数日前深谷寺みやでらで会ったばかりの少年こと、橘蒼実時行たちばなのあおざねのときゆきだった。頬を叩いて名を呼んでも目を開ける様子はなく、ただ浅く苦しそうな呼吸を繰り返す時行を見て、博雅はどうしようかと一瞬悩んだ。が、すぐにその考えを霧散させ、彼を連れて自邸に戻る事にした。屋敷の主であるのだが、博雅に仕えている者達は自身がまだ母体にいた時から彼を知る者もおり、主従関係にありながらも実際は彼等には頭が上がらない状態であった。

 博雅は自らの衣の袖を引き裂くと、血の匂いを濃く漂わせる時行に簡単な止血の措置を施してからそっと抱き上げると、なるべく刺激を与えないように急ぎ足で自邸へと向かっていった。

→戻る

→次へ